高円寺南口から徒歩5分ほど、環状七号線方面に向かうと、町名の由来となった「宿鳳山高円寺」がある。
その手前にある街の中華屋さんが「七面鳥」。
街の風景に溶け込んだその佇まいは、ご主人が先代から店を引き継いでからの53年間を、街と共に過ごしてきた歴史そのもの。
「七面鳥」と書かれた暖簾をくぐりながら引き戸を開いて店に入ると、先代からのお店が60年を経ているとは思えないぐらい、よく手入れされた白木の「コの字」カウンターがお客さんを迎えてくれる。
「いらっしゃい!」
お店、ご主人の声がする。
そして、お店にいるお客さんたち。
メニューに見入っている人、瓶ビールを冷蔵ショーケースからセルフで出して栓を抜いてる人、テレビを観ながら楽しんでいる人、カウンター下からマンガ本を引っ張り出して読んでいる人、などなど・・。
そこには自宅にいるのと何ら変わりのない日常がある。
お客にとっては特別なことではない「さて、メシでも喰うかな」な光景がそこにあるのだ。
そんな居心地の良さが、ここでの時間をゆったりとさせてくれる。
帰るときには必ず聞ける「ありがとうございました!」
ご主人や奥さんの声が満ち足りたお腹をさらに満たして送り出してくれる。
「また来よう!」と思うその瞬間だ。
<わたしが「七面鳥」に行ったときの行動と葛藤>
店に入る。
席に着くと見せかけて荷物だけを置いて、入口横左角にある冷蔵ショーケースから「サッポロ黒ラベル」の瓶ビールとキンキンに冷えたグラスを取り出して栓を抜き、それを持って今度は本当に席に着く。
ビール瓶を持ち上げて、冷えたグラスにビールを注ぎながらメニューを一瞥する。
さてと、喰いたいものは何だ!と考えていると、奥さんか息子さんがお通しを2品、目の前に並べてくれる。
その日その日で違う手作りのお惣菜メニューで、しかもサービスなのだ。
いったんメニューを選ぶ思考が停止して、目に前のお通しに魅せられる。
そう、これだけでも充分に「晩酌」が成立するのだ。
とは言えここは自宅ではないのだから、晩酌を楽しむだけではいけない!
ここは中華屋さんなので、サービスのお通しを喰いながらビールだけを呑んで帰るって訳にはいかないのだ。
さて、なにを喰いますか?と、再びメニューに目を移すのである。
<「七面鳥」メニューの一部を紹介>
*湯めん(タンメン)
野菜がたっぷりで、懐かしくもホッコリとするこの一杯。
*いりそば
焼きそばとは一線を引く、茹でた麺をソースで炒めた珍味。
*焼飯(チャーハン)
しっとりパラパラのチャーハンが、たっぷりと皿に乗ってきます。
*野菜炒めライス
ご主人自慢の定食は、若い人に野菜を取ってもらいたいと言う愛情の一品。
※写真は「ニラと肉炒ライス」です。
*カツ丼
卵トロトロで、わたしの中では三本指に入るカツ丼なのです。
*オムライス
お店一番人気のオムライスは、ボリューム満点で唯一無二のもの。
*カレーライス
さり気ないカレーは予想外にスパイシー。裏メニューで「カツカレー」も。
※写真は「カツカレー」です。
*天津丼
マニア絶賛の天津丼は、卵の魔術師であるご主人の技が光る逸品です。
*唐揚げ
しっかり下味をつけて、しっとりカラッと揚げられてボリューム満点。
*定食各種
絶対に美味しいメニューがたくさんあるから迷っちゃうよね。
※写真は「肉と竹の子とピーマン炒ライス」と「キクラゲと玉子炒ライス」です。
<「七面鳥」のご主人は矢野根さん>
はい、矢野さんって方はおられますけど「矢野根」と言って、うちは根っこが付くんですよ。
山形と北海道の札幌、親戚ばっかりですよ。わたしの生まれは山形ですが、山形でもその近辺にしか何軒もありませんね。代々男が少なくて女性が多かったもんだからねぇ~。
お店に来る教授が珍しがって調べてくれたり、父親にも聞いてみたんですけど判らないってことで、なんか珍しいみたいですよね。
<お店の創業は>
店は父の代からで、昭和34年に開店です。わたしが二代目になります。
父は最初からこういう商売をやっていたわけではなくてサラリーマンだったんです。三菱で石炭関係でサラリーマンやって、ちょっと体調を崩して60歳近くかな、店を始めたのが。
成城学園前駅の駅前で、母親の弟が終戦後から店をやっていたんですよ。
母親がそこの二代目みたいな感じでお店に入って少し仕事を覚えてきたんで、成城から職人さんを呼んで店を始めたわけなんです。高円寺支店って感じでやったんです。看板にも「高円寺支店」って。
なので父親は料理を作るほうは判らない。
成城の母親の弟のお店も最初は「七面鳥」って名前で、大分儲かっちゃってビルを建てて、上の階は宴会場にして中国人使ってやったんです。でも、バブルが終わって間もなく宴会場は厳しくなって縮小しちゃって。
今も店はビルの地下でやっていて、上の階はテナントとして貸しています。
<ご主人がお店をやり出したのは>
わたしは中華が好きじゃなかったから、最初は丸々3年間サラリーマンやって、それ から料亭に行って和食の勉強していたんですけど、人がいなくなったって言うんで呼び戻されて、それが23歳のときだったんですね。それからもう53年経ちます。
父親は80歳まで店に出ていたんですけど、もう出前専門で頑張ってくれてたんですよ。もうそのころの時代は出前中心だったから、まあ出前が忙しかったですよ。店はそれほど大したことがない。
店は以前は狭かったんですよ。昔は今の半分しかなくって、ここいら一角に赤提灯の店があったんです。そこに立ち退いてもらってこの大きさになったんです。
<商売はどうだったのか>
当時はね、学生さんがいっぱいいましたから。でもね、昔は古いアパートでね、苦学生さんが多かったんですね。
ここの商店街は昔っからあって、お店も食べもの屋さんも何でもありましたよね。でもあまり商売的にはいいことを言われない場所だったんです。
八百屋さんにしても4軒、魚屋さんは3軒あったかな、肉屋さんは1軒しかなかった。なんだか表向きは賑やかにしていたんだけど、裏じゃそのひとつの店の商売が家族みんなを養うくらいのね、競争なんかも激しくて上手くやれなかったって。
それを称して「何とか」って言ってたんだけど、なんて言ったのかやっぱり忘れちゃうね。(笑)
あんまり商売やっても儲からないって意味でね、裏では。
<店は歴史なり>
歩道は開店当時から店の前まであったんです。でもその先の信号のところからは無くなってしまうんだけど、商店街としては賑やかだったんですよ。
店の裏手や前の道の奥には古い家が多かったけど、昔からの方はマンションになっちゃったり、どこかに引っ越したりして変わっちゃった。
うちとうちの向かいの建物が、この辺では一番古いんじゃないですかね。
たまぁ~に「ご無沙汰してました~」って、何十年も前の学生のころにこの辺に住んでて、たまたま出張でこっちに来て、前を通ったら懐かしい店がまだあったってことで喜んでくれるんですね。
<若い人の向けたボリュームと酒呑みに向けたお通しサービス>
昔からそうでしたけど、若い学生さんが多かったので、とにかく何でもボリュームがあるようにとね、やってきましたねぇ。
お酒を呑む人に出す「お通し」は、昔から出していたわけじゃなくって、そうねぇ、20年ぐらい前からになるのかなぁ~。
昔はキリンビール一本やりで、厨房手前隅のあたりに置いてあったんですよ。当時はあんまりお酒呑む人もいなかったんだけど、でも出てたんだよねぇ~。
注文取って向こうまで行って出してきてって面倒くさいな~ってんで。コーラ屋さんに頼んで冷蔵ケースを入れてもらって、お客さんが自由に取ってもらえるように、種類も何点か増やしてね。
うちらも助かっているし、お客さんも気軽にね、慣れてくるとね、好きなものをね、自分の好きなときに取ってこれるから。
<お店の人気メニューだったのは>
昔はね「湯めん(タンメン)」だったんですよ。
タンメンを「七面そば」ってうちの店の屋号を入れて冠にしてやってたんです。
そうですね、それでもっていたようなもんだね。
それから良かったのは「肉野菜炒め」だね。キャベツともやしとたまねぎ、にんじんを炒めてね、ご飯のおかずにね。それがね、そのころからの一番メニューでしたかね。
一時期ね、「肉野菜炒め」が出なくなったんです。だけど最近また出るようになりましたねぇ。いやぁ~、時代がまた戻ってきたのかなぁ。
<看板メニュー「オムライス」誕生秘話>
最近よく出るようになった「オムライス」は、なんかひとつ自分のね、一点でいいからお客さんを呼べるなんかがないかって、倅たちと話しながらやってたんですけどね、なかなかね。
自分でいろいろ作ってはみるんだけど、いやぁ、メニューに出すほどのものじゃねぇなぁ。そういう才能なんかまったくないんだよね。でも、昔の成城からの流れ流れでやってきて、成城は料理屋になっちゃったから、昔やってた同じようなメニューなんかは向こうにはないんだわ。
「オムライス」は、「チキンライス」ってメニューが前からあって、それと「オムレツライス」。そしたらなんかのときにね「チキンライス」あるんだったら「オムライス」作ってみようってことで、最初は卵で包んでたんですよ。
包んで出してて、でもクルッと巻いてしまうと卵が硬くなっちゃうのね。だけどそれでね、じゃあ面倒くさいから上にぶっ掛けて食べてみようってことで、わたしなんかは半熟の卵の方が好きなもんだから半熟にして、それで自分で食事のときに食べてて、ケチャップとかソースとかマヨネーズをちゃーっと合わせてそこに洋がらしをぶっこんで食べてみて、なんかいけるよなぁ~って思ったんです。(笑)
<「オムライス」と吉田類>
だけどその当時「オムライス」はメニューなんかに出さないんです。メニュー出さないで、なんでだったのかなあの人、吉田類さんがたまたま来てたんだねぇ。それでなんか「おやじさん、なんかおやじさんのなんか、ちょっと食べれるもの作ってよ」って。
作ってよって言ったんだか言われたんだか判んないんだけど、吉田さんに出したんですね、とにかく、今の「オムライス」を。
「おお、美味しいな、こりゃいけるな!」ってことで「えぇ~」ってなって。
吉田類さんは当時はまったく知らないし。その前にね、やっぱり学生のころ近くに住んでたらしいのね。それで懐かしがって来て、そのときね、うちにね、トラネコがいたんですよ。トラネコがそこへね(棚の上)乗っかったりしてね。そのネコを取材しに来てくれたんですよ。
そっから始まって、類さん3回ぐらい来てくれたんだよね。で、マンガにもなったし、本も2冊出してね。もの書きの方とは知らなかったもんで。
面白いもんで取材される方っていうのは、いろんな情報を持ってね、それで取材に来ても、それほどのものでもないから恥ずかしいなぁ。でもそれのおかげさまで今あるし、こんなにもてはやされちゃってホントに恥ずかしいなぁ。
店はもう、土台もガタガタ、あちこちガタガタしているのにさ、でも金が無いから直さないからって、一応そう言ってんの。それでいいんだって言ってもらってますけどねぇ。
<「七面鳥」Jリーガーと>
サッカーの選手はね、この辺の商店街には必ず「FC東京」のフラッグが下がっているでしょ、お礼かたがた選手の人を連れてきてくれるんです。長友さんとか、ホントあの人が来てくれてからまた忙しくなったのよ。
長友さんと石川さんが最初に来てくれたんです、「FC東京」の代表として。
その後から平山さんとかいろんな選手も来てくれて、一緒に写真を撮ったりして。だから自然と応援するようになりましたよねぇ(笑)
わざわざ味の素スタジアムの方まで応援にはいけないけどねぇ。
<芸能人もよく来る「七面鳥」>
それと面白いのは谷原章介さんね。いゃ~あの人、どこからどう知ったのか住まいが近いってわけでもないのに、朝の開店早々来てくれたんですよ、マネージャーとふたりで。「えぇ~」って、オレなんかよく判らないけどお母さんが「谷原章介さんですね~」って言って、「はい」ってことでね。
スポニチのなかに、橋本マナミさんのコーナー(「恍惚のグルメ」?)があって、そこの人がもう何回も来てるんだけど「お願いしたいんだよ~」って。
橋本マナミさんって出身が山形だからね。それでね「じゃあ、同郷のよしみでお願いしますよ~」って、こっちからお願いしますってねぇ。
会話して、やっぱキレイだなぁって思ってね。山形にもこういう人いるんだぁ~って。(笑)
<「いらっしゃい」「ありがとうございました」のご挨拶>
お客さんへのご挨拶ですか?そうですねぇ、習慣と言うか。
最初に入った会社がそういう会社だったんですよ、物売りだったんでね~。
来ていただいたお客さんにはできるだけ言うようにしてるんですよ。どうしてもカウンター商売で中に入ったきりだから、そうすっと「黙っているのも失礼だなぁ~」って、やっぱりね。
<厨房に立つようになったのは45歳から>
昔は職人さんを二人雇ってやっていたから。だからわたしは出前専門です。
わたしがこの仕事に入ったのは遅いんですよ、45歳から。だからまだ30年しか経っていないんですよ。その前もずっと出前持ちで。そう、23歳からずっと出前持ち。
だから父親が亡くなって2年半、職人さんも辞めてもらって、その間に見様見真似でちょこちょこと作ってみたり。お客さんには出さなかったけど。
だから自分でやるようになったのは45歳からなんです。
<土曜日定休日の理由>
自分では土曜日を休みにして良かったな、と思っています。
職人さんたちが競馬が好きで、仕事にもならないんですよ。特に好きだったんですよ、うちにいた職人さんが。だったらしっかり、じゃあ競馬に没頭できるようにって、土曜日を定休日にして。
その前までは月3日しか休めなかったんですよ。巣鴨の地蔵さんによくお参りに行ってたから、その3日だけは曜日関係ないけど休みにしてたんです。
だけどしょうがないよね、競馬好きで。わたしも今競馬が趣味になっちゃったからちょうど良くなってね。休みの日は競馬。東京競馬場は年に2回ぐらいしか行かないけど、あとは新宿か後楽園ね。
やっぱりストレスも溜まるしね、リフレッシュして。やっぱりぜんぜん違いますよ、行ったときと。
<高円寺阿波踊りのとき>
祭りだから出なきゃいけないんだけどね。
2、3年前までは手伝っていました、出発するとこだけとか。お店の開店前に行ってね。
祭りが始まってるときは大したことないんですよ。でも、あとがね~すごい。
本当は休まないといけないんですよね、町会の祭りもあるし。だからうちは勘弁させてもらって店開けて、通りをを明るくしておくってことでね、誤魔化して。(笑)
店が終わるのも11時ぐらいになっちゃうぐらいだからねぇ~。出店(でみせ)なんかはとてもとても。本来定休日の土曜日も店開けて、通りを明るくしておくことに協力してます。
<これから店をどうしたい?>
店は、あーしたいこうしたいってのはあって、店開けてないときは自分でイスやらあちこち直したり、いろんな食材料を新しく使ってみようとか、そういうのもあったんだけど、最近は歳のせいなのか「もういいや」って思っちゃってね。
このあとは息子たちがやるって言ってるから。そのときの流れでどういう形になるのか判らないけどなぁ。
<居心地のいい店>
こんな昔ながらの店なんだけど、最近は居酒屋みたいな使い方する人もいて、よく喋くってね、けっこう長い時間いるんですよ。
ラーメン屋でそんなに長い時間いるなんて~と思うんだけど、そしたら誰かがね「いや、落ち着くんだよ」って言って、「ああ~そう~」って。
こんな店でラーメン一杯喰って、何時間も話し込んでる人なんかがいるからねぇ。
なにがいいのか5時過ぎには入ってきて、こっちがもう店閉めたいなと思っててもまだいて。よく尻がいたくねえなぁ~と思って、こんな薄っぺらなイスで。たまにはそんな人もいますね。
<ご主人にとっての「愛」とは>
「愛!」
愛ねぇ~、うう~ん。
変わらないことかなぁ。
変わらないの、とにかく。カミさんもカミさんだし、みんなそれなりに忙しい。
だから、好き嫌いとか、好きであってまた嫌いであってじゃなくて、やっぱりわたしは「好き」って。
しばらく入院していたとき、あのときこそありがたかったなぁ~って思いました。自分がいなくてもよく休まないで、よく続けてやってこられたなぁ~って。
元気になって、もう少しなんか、今まで前はそんなに好きでなかったんだけど、やっぱり、ああ、良かったな、うん、続けてきて良かったな。途中で何度かやめようかなって思って。(笑)
いやホントにね~。
<元気であればこそ「七面鳥」>
今年で75歳。9月29日で75歳ですよ。後期高齢者になりますね。
いや~でもね、こうやってね、続けられるっていうのは、ありがたいです。丈夫な身体に作ってくれた親に感謝です。
子供のころなんて戦時中は痩せてるし、今でも痩せてるんだけど、でも大人になったらぜんぜん違うもんね、食べ方がね。今まで嫌いなものも食べられるようになったし。
この前、病院に入って余計にそう思いました。腹減ってるから何でも美味しいんだな。(笑)
病院の食事はどーのこーのって言っているけど、いやぁわたしにとっては、病院の食事はこんなに美味しく食べられるもんかって。
元気になればこそで、だから内臓じゃなかったので、わたしはケガだからね。
気持ちはね、ずーっとね「一生職人」ってそういうつもりはあるんですよ。
うちらの仲間、今、減っちゃってもう2人しかいなくなっちゃったんですよ。前は11~12人いたんですよ、高円寺界隈で。
それでね、今年になってもね「代一元」さんが近いうちにやめるんですよ。それとね中通りの「萬里」さんも5月でやめたんですね。だからね、寂しくなってね。
わたしら仲間をまとめていた方が、83歳までバイクをブッ飛ばして出前やってたんだ。だからみんなね、その方を手本にしてね。(笑)
だからわたしもね、80歳過ぎまではやりたいな。80歳超えなきゃダメだよな。
それまで、建物が無事かどうか判らないけど。(笑)
ご主人、長い時間ありがとうございました。
2019.6.26 Wed
「七面鳥」にて。
取材:木澤聡
写真:小野千明
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