第八回:安田兄弟

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<高円寺音人の紹介>

 

音楽は空気を伝わって耳に届き、聴こえる。

だから演奏される音楽がステージの客席の空気感を変えてしまうことがある。

「安田兄弟」のライブパフォーマンスを観て聴いたときに毎回感じることだ。

パワー、魂、躍動、グルーヴ感、なんと表現したらいいのか。

圧倒的なその存在感に揺さぶられるものを感じずにはいられない。


「安田兄弟」は、安田久仁也さんと安田光一さんのふたりが中心のバンドユニット。

でもふたりは阿佐ヶ谷姉妹同様、実の兄弟では無い。

ふたりとも「安田」だけど違うのだ。

兄は「静」、弟は「動」。そして、兄は「意」、弟は「衝」。

しっかりと兄弟らしい役割があるのだ。


ふたりが出逢い、惹きつけられ、共に演るようになった話はとても面白かった。

そして今回の取材や撮影の際も、ライブのときと同じような「安田兄弟」の空気感を味わうことができた。

その空気感が伝わればいいなと切に思うわけであります。

 

木澤 聡

 

 

<「安田兄弟」現在の活動>

 

久仁也さん:2020年2月のライブが最後で、3月以降のライブをすべてキャンセルして今に至ります。

光一さん:メンバーに介護従事者もいるんで洒落になんないだろうということでね。でもそろそろってことで、再開しだしていますよ。この前も久々にスタジオに入って、今週もリハーサル予定。

久仁也さん:1月22日に高円寺の「Show Boat」で演るんですよ。

光一さん:「OWLS」とかと演るんです。北川(「OWLS」のギタリスト)の誕生日に近いところで、みんなで一緒に。


<音楽の演りはじめ>

 

光一さん:初めてギターに触れたのは中一ですかね。友だちの家に行って触ってみたいな。で、触ったあとすぐにバンドごっこ始めましたね。バンドらしきもの、というか。まずはカッコから、ロゴから作ろうと思って。

久仁也さん:いいね!(笑)

光一さん:フェンダーのロゴをもじって「フライヤーズ」ってのを作って。(笑)
バンドやる前はデザインっていうかマンガとか描いたり、植物図鑑とか動物図鑑とかを見てオリジナルの怪人の絵を描いたりしてたもんで。
フィンガー5からビートルズやアメリカンポップス&ブリティッシュロックに行くみたいな感じかな。
実際、ギターはベンチャーズからなんですよ。リアルタイムではないんだけど、友だちにお兄さん、お姉さんがいたりなんかするとベンチャーズがあるわけなんですよ。だからボクの教則本はベンチャーズ。それを演りながらそのうちにだんだんキッスとかクイーンとかに行くわけですが、ピアノでいうところのバイエルみたいなのはベンチャーズなんです。

久仁也さん:ボクは小学校3年からですかね。近所の高校生のバンドを窓の外から覗いてたんです。それで「好きか?」って聞かれて「好き!」って言ったら「じゃあドラムの叩き方教えてやるよ」って教えてもらい、そこから大学までずっとドラム叩いてました。小学校2年のときにトランジスタラジオをクリスマスプレゼントでもらって、毎晩FEN(米軍基地向けラジオ放送 AM810hz)で、クリフ・リチャードとかプレスリーとかを聴いてましたね。


<バンドをやるのって>

 

光一さん:当時はバイクに乗るかギターにノルみたいな時代だったのかなぁ?

久仁也さん:ギターかバイクかっていうのはすごく判るね。中学生でドラムが叩けるようになってたんだけど、バンドをやりたいってヤツらがバンドをやりたいけどドラムがいない、っていうのがすごく多かったね。だから小学校6年で中学生のバンドに入ってたりとかしたんだけど、親がすごく厳しい家で、見つかっちゃ何本もスティックは没収されて「バンド禁止!」みたいな。それで19歳のときには勘当もされてね。
当然、ドラムセットも無いわけだから、楽器屋さんの2階にあったショボいドラムか、友だちのお姉さんが女子校の軽音にいてその部室に紛れ込んで練習したりしてましたね。

光一さん:その点、自分は友だちに恵まれてて金持ちのドラ息子がいたんですよ。そいつの家に行くと中学生でPearlのエイトブラザーズって高っかいの持ってるの。その友だちには兄貴もいたんだけど、もう12畳ぐらいの部屋に楽器もアンプも揃っているわけですよ。そりゃ入り浸りますよね~ 。そこのお母さん様々でしたよね、いつも怒られてね。(笑)

久仁也さん:バンドやりたいいヤツらの中には一人か二人、なぜか金持ちがいて、そいつが楽器からアンプまで親に揃えてもらって、メンバーを家に集めてバンドやってる時代だったなぁ。でも高校のときはさすがにそんな金持ちいなくて、リヤカーにアンプとか積んで移動してたよ。(笑)

光一さん:そうかぁ、ややジェネレーションギャップもあるのかなぁ。(笑)


<影響を受けた・・・>

 

久仁也さん:初めて衝撃を受けたのはビートルズの「A Hard Day’s Night」ですね。あのコード一発のイントロで目の前に続くレールが木っ端みじんとなって、直感的に音楽にちょっかいを出したいと思いました。そして、バンドを本気でやりたいなと思ったのは「Jumpin’ Jack Flash」を聴いてからですかね。それまでのボクは音楽に関してはノンジャンルだったんです。クラシックもラテンもなんでも聴く~みたいな感じだったんで転換点でしょうね、そこは…。

光一さん:自分が色気づいてきてからのドアイドルはキッスとキャンディーズですね。そのころのオレにはいつもキッスとキャンディーズがありましたね。もう少し大人になってからのギターアイドルはジェフ・ベックとジミ・ヘンドリックスかなぁ~。

久仁也さん:一番最初に行った外タレコンサートは武道館に来たビートルズでしたね。もう「ギャ~!」って感じで何も聴こえない。

光一さん:オレはやっぱりキッスかなぁ~、やっぱり武道館かなぁ~。


<ふたりが交わる>

 

久仁也さん:ふたりが一緒に演ることになったのにはキーマンがいて、ベースを演ってくれている兼次っていうのがいるんだけど、彼が光ちゃんと一緒に「タガンタガン」ってスリーピースのバンドをやってたんです。で、彼はそれをやりながらいろんな他のバンドも掛け持っていて、当時のボクのバンドも手伝ってくれてたんですよ。それですごく仲良くなって「タガンタガン」ってバンドもやってるから一度観に来てって言われ、町屋のライブハウスに観に行ったら「なんだこのバンド!」みたいな感じで。ムチャクチャ好みだったんですよ。空間の作り方とか、ビートとか、すごい好みで「こんなバンド観たことない」と思って。それでなんか光ちゃんと話ししたいなぁ~みたいな。

光一さん:ボクはけっこうトリオが好きだったんですよ。自由度があるというか。

久仁也さん:彼らのバンドはトリオだったんだけど、あとからギターで入れてもらうことになるんですけど、まあねぇ~、光ちゃんは1人でなんでもできちゃうんで隙間が無いんですよね。あ~ここも入れない、ここも入れないみたいな。(笑)


<音楽的嗜好と志向>

 

光一さん:3人で演ってるときのオレが作る曲って、自分で言うのもなんだけどスリーピース然としたのあんまり演らないじゃない? 要はハードロック全盛の時代のすぐあとにファンキーなブラックミュージックが来て好きになっちゃうんですよ。
そのときはスティービー・ワンダーが一番好きだったのかもしれない。マイナー7th系の甘いオシャレな感じが大好きになって。片やスリーピースでロックっぽい曲も作ろうと思うと、自分の中でもうグッチャグチャになるわけですよ。

久仁也さん:もうそれでね、なんと両方とも1人で演っちゃうんですよ。

光一さん:ボクの昔からのクセかもしれないけど、ハードロック演ろう、なに演ろうってときに「〇〇風みたいなの演ろう」っていう感じになりたくないんですよ。イチゴと大福が好きだったら「イチゴ大福」作ろうぜ!みたいな感じになっちゃうんです。
それでそういうのをやってきて3人でいろんなことをやっていかなきゃいけないってことで、毎日研究をしてましたよ。その音のことをたぶん安さんは「面白い!」って思ってくれたんですよ。

久仁也さん:ボク、けっこう「空間」って反応するんで、3人でこんな大きなバックグラウンド作って、その中で1人でウワァ~っときて、またその空間がフワっと消えていく。背景が消えていく前にグワーンみたいなことを演って、また背景を作ってみたいなことの繰り返しを1人で演っていたんで、すごいなって。
ボクもスティービー・ワンダーやスライ&ザ・ファミリー・ストーンとか好きだったんで、そこらへんもけっこう通じているんだな~って。
白人がファンキーに演りたいみたいな中間な感じというか、例えば、ホール&オーツやリビングカラーみたいなグレーゾーンが好きで、なんとなく「安田兄弟」が演ってることって、それに近いのかなって。なににもそのまま当てはまらないような。曲作りもそこを意識しているし。

光一さん:言いたいこと言うのがロックなんだけど、ソウルはどちらかというと気持ちだからね。そしてファンクは音のお祭り的な感じなんだろうなぁ。

久仁也さん:確かに~。「サマー・オブ・ソウル」って映画を観たんだけど、あれはすごかった。祭りだ祭り…。黒人音楽の「ウッドストック」だよね。


<「安田兄弟」までの紆余曲折>

 

光一さん:「タガンタガン」が、ドラムがいなくなったりなどで2年ぐらい活動してなくて。絵本作家さんとのコラボで作曲したり、そのコンサートの為のバンドは一時的にやってましたけど…。

久仁也さん:オレと兼次のふたりで「なんかもったいないよな~」って、光ちゃんを口説きに行って。

光一さん:安さんがやった「バナナボート」ってバンドができるわけですよ。25年ぐらい前になるのかな。そこで一緒に演って、「ネブラスカ」の周年(5周年?)記念CDにも「レディ・マドンナ」を収録したりして。

久仁也さん:その間にもボクの仕事の都合とか、光ちゃんは「バンブーハウス」って店を始めたりと、みんなそれぞれにバンドに手が回らない時期があって、10年ぐらいインターバルがあったりもしたんですよ。解散とかそういうわけではなかったんだけどね。

光一さん:みんな年代として社会的にいい大人の生活をしなきゃ、と考えるころだったんですよ。(笑)
「バンブーハウス」を始めてから映画関係の人たちとの付き合いが増えて、映画音楽とかの音楽制作をやるようになったんです。安さんもそのクライアントでデザインやってたりとか。(笑)
偶然なんですけどね。
その間に高円寺でも違う一派の「ドスコイズ」ってバンドがあって、そこのギターが辞めるってことでそこに入るんですよ。生き方がブルースな人が面白くて演歌な曲をブルースっぽくするとどうなるかってことで。それでアレンジをやりだすんですよ。映画音楽と「ドスコイズ」でアレンジの妙味を知りましたね。(笑)

久仁也さん:そんなこんなのあとに、勝が「ロケット」ってバーを開いて、よく呑みに行くようになって、勝のところで「ロケット・ボーイズ」ってバンドを作ることになって。その打合せで何回も「ロケット」に行ってるうちに光ちゃんとバッタリ会ったんですよ。で、「久しぶり~!」って盛り上がって話しているうちに「やるかぁ~?」ってなって「マジ~やる演る~」って。メンバーどうするってなったけど、とりあえずふたりで始めておいおいにってことでね。だから「ロケット・ボーイズ」の話が無かったら、「安田兄弟」も無かったし、ボク自身がプレイヤーとして復帰してなかったですよ。


<バンドとしての「安田兄弟」>

 

光一さん:同じ曲を演っていてもメンバーが増えたり替わったりすると面白くって、曲のアレンジがどんどんどんどん変わっていくわけですよ。

久仁也さん:メンバーのキャラクターが見えてこないと面白くないよね。メンバーが替わったことによって、例えばパーカッションもこうだったりああだったりと変わっていくんですよね。メンバーありきで変えたり、こんな感じのアレンジで演りたいからこのメンバーとか、いろんなパターンがありますね。

光一さん:昔からの曲をレコーディングして盤にするとして、みんなに演ってもらいたいから、この曲はあの人に入ってもらいたいなぁ~とか、一番得意なものを得意な人に演ってもらいたいからね。みんなありがたいですよ。

久仁也さん:オレたち他のメンバーのみんなに遊んでもらってるんですよ。そういう感覚は大切にしてますね。

光一さん:「安田兄弟」として割りと頻繁にステージに上がるようになったのはここ2~3年ぐらいで、それまではイベントがあるので出ない?っていう誘いがあったら行って演ってたって感じでしたね。

久仁也さん:いろんなライブとかを観に行くと誘われたりするんで、その会場に合わせて編成変えたり、曲のアレンジ変えたりもするもんだから、誘われることも多くなって月一とかで演るようになったかなぁ。


<おふたりにとっての高円寺>

 

久仁也さん:ボクは「ターンテーブル」をやっていた一郎(中田一郎)さんと出会って、一郎さんが高円寺に住んでいて、一郎さんと一緒にバンドをやっていて、高円寺にいい店ができたから行こうよ~って連れていかれたのが開店したての「ネブラスカ」だった。「ネブラスカ」に行きだしてそこでお友だちも増えて、そこから「ZZトップ」にも行くようになってさらにお友だちが増えて。光ちゃんと出会ったのはたぶん「ZZトップ」に行きだしてからだったと思う。
高円寺に引っ越そうと思ったこともあったけど、自分の性格を考えるとそれは危険だなぁ~と。(笑)
ちょっと寸止めにしておいて、その分高円寺を客観的に見られる。怖くてねぇ~ 。道歩いてると知り合いばっかりじゃないですか。知ってる店もたくさんあるから真っ直ぐ帰れない自分が怖いというか。(笑)

光一さん:ボクはねぇ、そもそも実家が阿佐ヶ谷の高円寺寄りにあって5歳以降ずっとそこにいたから、阿佐ヶ谷と高円寺の間でグルグル遊んでいたわけですよ。
「ZZトップ」でみんなと出会う前に「MAGIC V」っていう立花じゅんちゃんの店があって、じゃんちゃんは、オレとか勝とか北川の阿佐ヶ谷中学仲間が高校生になるころには、もうロックバーを始めているんですよ。そこに高校のころからみんなで行ってレコードとか聴かせてもらっていたのが、最初の高円寺のバーとの関わりの初めかな。「キーボード」っていう店もあったんですよ。プログレやハードロックの曲を爆音で聴かせてくれる。
「ZZトップ」に行ってたころ「イカ天」が始まって。「タガンタガン」をやってたころで、みんな他のバンドが「イカ天」に出ているのに、当時のバンドのリズム隊が八丈島出身の硬派な人で「そんなチャラい番組には出たくない!」って言うもんで出られなかったんですよ。(笑)
高円寺はロック系の店とかライブハウスが多かったから、自然と阿佐ヶ谷よりは高円寺で過ごす時間が多くなったかな。


<高円寺のいいとこ悪いとこ>

 

光一さん:高円寺のいいところは、誰がいても他民族な感じを受け入れてくれるところ。そして、良くも悪くも、だらしないこともなんでも許してくれる、売れない街です。地方から出てきてやる気はあるけど売れないヤツらでも、バーや呑み屋は優しいから受け入れてくれるんですよね。でも、それでダメになるのがイヤで出ていくミュージシャンたちもいるんですよ。「高円寺にはいつまでもいるな!」って。(笑)
地元の人たちの高円寺愛も強くって、30年近く前から北口の開発の話もあったんだけど、商店街のおかみさんたちが猛反対して潰しちゃったからね。やっぱり音楽と一緒で生活も解放しなきゃならないですよね。

久仁也さん:ウチがベットルームだとするじゃないですか。だとすると高円寺はリビングダイニングキッチンみたいな感じですね。寝て起きて仕事もしてやることやって、「終わった~」ってなって「メシ喰いに行こうかな、呑みに行こうかな~」ってドア開けて出る。そうすると、どのソファーに座るかなんですよ。そこには知ってるヤツがいて、普通にリビングでくつろいでます、みたいな。自分のウチのリビングが「どこでもドア」で繋がってるみたいな感じね。逆に高円寺は寝るところじゃないですね。(大笑)
「安田兄弟」が高円寺から直接影響を受けることはそれほどないんだけど、いろんなジャンルのいろんな音楽をやっている人がいるので、いろんな人から刺激を受けるっていうのはありますね。こういう考え方とか構築のやり方があるんだっていうのが判ってくるじゃないですか。そうすると判った上で自分はどうするかっていうのを計れるのは、高円寺ならではかなって。みんなそれぞれ住んでる世界とか表現のやり方が違うので、そこはちょっと面白いかな~って。


<「安田兄弟」の音楽を20秒で語ると?>

 

光一さん:みんないつまでも子どもの新しい気持ちで、見たことのないものを見たのを面白いと言って楽しんで解放しよう!大人にならないで。

久仁也さん:夢の中でドキュメンタリーを観ている感じ、っていうのが「安田兄弟」の音楽なのかな。


<おふたりにとっての「音楽」とは?>


久仁也さん:
道楽ですね。
楽しい仲間と楽しい音楽を楽しみながら歩いていく道は、究極の道楽だと思う。それがあるから人生をどういう風に解釈するかの角度をつけられるし、日常どうあるべきかも決まってくるんで。

光一さん:解放です!お祭りです!言いたいこと言う!誰にも忖度なんかしない!「博多どんたく」だったらいいですけど。(ふたりで大笑)
自分の言いたいこと言わないと何も始まらない。コミュニケーションですよ、やっぱり。

 

 

取材協力:「高円寺スタジオ・コヤーマ」、高円寺「やじきた2号店」


2021.12.15 WED

取材:木澤聡  北原慶昭
写真:小野千明

 

 

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