第九回:ミッキーさん【ガンバラネBAR オーナー】

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「祭りのように」

すごく勝手なイメージだけど、どこか「高円寺っぽい」って思わせてくれるひとって、なんか飄々としていて、物腰が柔らかくて、仕事とかなにをやっているかわからなくて、どうやって暮らしているんだろうって感じ。ちょっと不思議なひとを思い浮かべてしまう。
有り体に言ってしまうと「ヒッピー」みたいってことかもしれない。

高円寺といえばインドでしょということで、ゆるキャラはサイケデリーさんだし、「素人の乱5号店」の松本哉さんも、高円寺にはどうやって生計を立てているのかわからないひとが多いって言っていたし、あながち間違っていないのかもしれない。

ミッキーさんは、そんな「高円寺っぽい」イメージのどまんなかにいる。

「ガンバラネBAR」ができて間もなくからの長いつきあいだけれど、その独特な人間的魅力はずっと変わらない。ミッキーさんの人柄がそのままの「ガンバラネBAR」では、居心地のよさからついつい長居をしてしまい、なんども終電を逃した。

はたで見ていて、だいじょうぶかなってハラハラしたり、もどかしく思ったりするところもあるのだけれど、ミッキーさんと「ガンバラネBAR」が、幾多の困難を経て、こうして13年も続いているってところが、どうしようもなく「高円寺っぽい」。

それならば「高円寺人」にでてもらって、ゆっくり掘り下げようということになった。とどまることなく語られるその人生は、興味深いエピソードがあちこちに散らばっている。

こうあるべきだとか、こうしなくてはとか、追われがちだったり、コロナ禍でへんにイライラしているなら、カモミールティーでも飲みながら、ミッキーさんの愛に溢れた話に耳を傾けるのもありだと思う。

人生ってたいへんだけど、それはお祭りみたいなものだし、もっとゆるくても、気楽でもだいじょうぶって、きっと感じるにちがいないだろう。

 

<ミッキーさんの青春>


ミッキーです。
歳は今年ロック(69歳)です。
13年前からここ新高円寺で、「ガンバラネBAR」という店をやってます。

生まれはこの近所で、方南町なんです。
小中学校は杉並区で高校は中野区でした。家が杉並と中野の区境にあって、隣の家は中野区だったぐらいだからね。
方南町は同じ杉並でも高円寺や阿佐ヶ谷からはちょっと中途半端に遠くって、なかなか店をやるまでは高円寺に来ることが少なかったです。

学生時代とか遊びに行くのはだいたい新宿で、当時ロック喫茶ってのがあって、そこに入り浸っていることが多かったです。一番デカいのは歌舞伎町の入口の所に、地下に入っていく「レインボー」っていう、大きなDJブースのある喫茶店でした。ビールとか飲んでる人もいたけど、ほとんどの人はコーヒーを一日かけて飲みながら、デカい音で流れているロックを聴いているんですよ。

もうロック喫茶はみんな無くなっちゃったね。

方南町からは下北沢も近かったのでよく行ってました。やっぱりロック喫茶や飲み屋が多くてね。下北沢の場合はそんなに大きな店は無かったけど、小さな店があちこっちにあって、再開発とかされる前は、新宿の「しょんべん横丁」みたいな飲み屋街が残ってたんですよ。

その中にカウンターだけの小さなボロボロの店があって、よく行ってたんですが、同じ年のドラムのヤツがオーナーで、そいつはあまり店にいなくて、若いアルバイトに店をやらせて、自分は近所で飲み歩いてるんですよ。(笑)
オレもときどき店番やらされて、カウンターの中に入ればタダで酒も飲めるし。(笑)

下北界隈にも音楽やってる仲間がいっぱいいて、バンドやったりライブやったりのイベントを主催する、同じ年の人もいました。その人がプロモーターでいろいろ企画してバンドの面倒を見てくれたりしたんで、しばらく下北沢あたりで飲んだりしてました。

その後、13年前にここ「ガンバラネBAR」をオープンさせました。

 

<ミッキーさんとバンド>


バンドは中学生のころからやってました。

時代が時代なもんで、最初は中学に入ってからビートルズとかベンチャーズとか聴いてギター弾き始めたんだけど、周りにギター弾いてるヤツがそんなにいなくて、クラスにもうひとりいて、そいつと一緒に演ってたかな。

今はねぇ、小学生の女の子でもギター担いで学校に行ったりするけど、そのころは全然いないし、学校にギター持って行ったら不良だったからね。
学校の音楽の先生から「そんなの音楽じゃない!」なんて、そういう時代だったんだね。別に不良だったわけじゃなくって超真面目だったんだよ。タバコは吸ってたけど、そのくらいのもんでね。

そのうち大学入ったころから、バンドを入れている店が当時はたくさんあって、そこの「箱バン」ってやつを演りだしてね。いろいろなバンドを演ったけど、だんだんロックバンドの「箱バン」が無くなってきて「歌謡コーラスバンド」を演ってたりもしました。当時はちょっと楽器ができればいくらでも仕事があったんで、バンドで喰ってましたよ。良かったですね、あの時代は。

大学は7年間行ってたんだけど、そのころから「箱バン」始めて、大学を卒業したころにはもう20代半ばぐらいだった。
最後に演ってたのが、横浜の大きなホストクラブで、そこのバンマスはラテンが大好きで、ギターで入って半年ぐらい演ってました。
「箱バン」最後の時期だったんだけど、その店はステージも広くてデカい音も出せてけっこう良かったね。

 

<アメリカへ>


その直後にアメリカに行きました。3年半ぐらい向こうにいました。1979年に行って1982年の終わりに帰ってきたんですよ。戻ってきたら日本はすっかり変わってましたね。

ロサンゼルスにいました。ロスは地域によるんですけど、当時はかなり物騒でしたね。ガラの悪いところは昼間でも危なくってね。アパートの家賃とかは安いんだけど、大家さんが「夜になったら窓のそばに寄るな。」って言うんですよ。なんでかって言うと、みんな銃を持ってて窓に人影が見えると射的の練習台にされるって。そういう怖いところですよ。ハリウッドやビバリーヒルズなんかは何の問題も無い。エリアで全然違う。場所の問題なんだよね。

人もとんでもない凶悪なヤツがいっぱいいるんですよ。日本じゃ考えられないようなとんでもない酷いヤツが結構いるんだよね。逆にいい人ってのは、日本人じゃ考えられないぐらいメチャクチャいい人なんです。両方極端なの。

アメリカには音楽を演るために行ったわけじゃなくて、大学出てからもバンドばかりやって就職活動はしなかったんだけど、すごく真面目な家庭だったもんだから、母親が新聞の求人欄を見て探した仕事がきっかけだったんです。じゃあってアメリカ行ってみたらすごくいいところで、ミュージシャンの友だちもたくさんできて良かったですね。

勤め先はね、その辺の話になると長くなっちゃうんだけど、行ってみた会社が実は「インチキ」だったんです。(笑)
ちょっとなんかねぇ~、詐欺にあったような感じで・・。

でも、向こうで知り合った広島の人がいて「店やるんで手伝わないか?」って言われて。昔バンドやってたときに広島にディスコがあって2度ほど行ったことがあったんですよ。そのとき向こうの「広島焼き」ってのが気に入ってよく食ってたんだけど、その広島の人が「広島焼き」の店をやるから手伝わないかって。大工仕事とか得意だし「広島のお好み焼き大好きだ~。知ってますよ~。」みたいな感じでやることになりました。日本に帰るつもりだったんだけど、なんだかいちゃったんですね。

そうやって3年半アメリカにいました。

 

<アメリカから日本へ送還に>


観光ビザだったんですよ。で、3ヶ月間いて、いったん日本に帰って、ちゃんと正社員になってからまた向こうに行くっていうのが最初の話だったんだけど、3ヶ月の間に「この会社、おかしいぞ、詐欺だ!」ってことになった。
そのタイミングで、広島の人に出会ってそのまま居ついてしまった。アメリカいいところでますます帰りたくなくなって、結局流れでビザが無いままいたんですよ。

その広島の人に聞いたんですよ「もうビザが無いから帰らなきゃ。」って。そしたら「いやダイジョブダイジョブ、オレもビザ切れて何年も経つんだよ。」って言うわけ。「そもそも日本人は真面目だから、捕まえに来ないからダイジョブ」って。

実際にそうだったんですよ。日本人だけじゃなくて、世界中からいろんなヤツが来ていて、特に中南米方面が当時は国境があって無いようなもんだったから、捕まえてメキシコに戻しても3日後には戻ってきてまた暮らしてる。そういうのばっかりなんです。それに比べたら日本人ってすごい真面目だから、仕事はちゃんとやる。不法就労でも真面目に働くので、日本人は捕まらないから大丈夫って言われてたんで「ああ、そうなんだ!」って思ってそのままいたら、結局3年半後に不法滞在がバレて捕まって返されちゃったんです。(笑)
強制送還ではなく「任意送還」ってやつで、自分の意志で出なさいよってね。

まあ、イージーだったんだよね。いったん帰るかなって。3年半経つし。またすぐに戻りたかったんだけど、結局チャンスがないまんまうやむやになっちゃったんだけど。

 

<帰国して音楽事務所を設立>


アメリカではいろんな仕事をやりました。「リトルトーキョー」って日本人街があって、その中にラジオ局があったんです。サテライトスタジオ。小さな金魚鉢(注:スタジオのこと)があって、そこで毎日1時間だけ日本語放送をやっていて、そこでも働いていたんですよ。

たまたま土曜日のパーソナリティの人が日本人のシンガーソングライターだった。日本でワーナーパイオニアからLPを4枚出しているフォークシンガーで、30分ぐらいのラジオ番組の中で自分の曲を4曲ずつかけながらしゃべってたんです。その番組の手伝いをしていた関係でその人と話が合って、いままでいろんな音楽を演ってきたなかで、最後まで縁がなかったフォークもいいなって。
「さかうえけんいち」っていう、コテコテの四畳半フォークの人なんだけど、ラジオ局で毎週レコードかけてたら、「この人いい曲を書くなぁ~。」って思うようになって。彼の日本の家も三軒茶屋で、方南町からも近かったんですよ。

だから日本に帰ってからもしょっちゅう遊びに行って、その人の曲のアレンジやコーラスをつけたりもして、けっこう本格的にバンドを一緒にやっていました。

そのつながりで音楽事務所を借りようって話になって、LPなんて今さら売れてもいないし、ライブやったってお客集まるわけでもないのに、事務所なんて~って話だったんだけど、物件探すのが好きなもんで、広尾でボロボロのビルの六畳一間を借りてきて、そこで音楽事務所をやろうってことになった。結局収入も無いんで、家賃も払えなくなってね。

 

<音楽事務所が便利屋に転向>


でもその「さかうえけんいち」って人は、周りにすごく人が集まる人だったんですよ。その古い友だちがやってきて「便利屋をやらせてくれ!」って。それで便利屋をやることになった。音楽事務所のメンバーで便利屋を始めちゃったんですよ。それがけっこう長かったですね。

最初はどんな仕事がきて、そしたらどうしようなんて思っているうちに、1年2年経ったらもう何がきても大丈夫みたいな自信ができてね。便利屋をやって、いろいろ訓練になりました。人生の訓練というか、何が起きても大丈夫というか。
引越しや犬の散歩はもちろん、受験生の娘がいるんで、有名中学の受験票取りに並んでくれとか、いろいろありましたけどね。

チラシを作って事務所があった広尾を中心に隣の麻布とか六本木とか白金とか、あの辺のお屋敷街というか高級住宅街に撒いたんです。赤坂とかのビジネス街も含めて。場所柄チラシは半分英語で書いたんです。アメリカでは便利屋は「Handyman」って言うんですよね。

そしたら千昌夫さんの奥さんのジョーン・シェパードさんから電話がかかってきて、「引越ししたんで家がグチャグチャだから今すぐ来てくれ。」って。たまたますぐ近くだったんで行ってみたら、いろんな業者が入ってて。元ルワンダ大使公邸だった蔦の絡まる古いお屋敷を改装してたんですよ。千昌夫さんが呼んでた業者は全部岩手県のだった。(笑)

オレらだけシェパードさんから呼ばれてたので違ってて。そしたらやたらと気に入られちゃって、しょっちゅう電話がかかってきて、ちょくちょくと細かい仕事を頼まれてね。そのうちに千さんが経営する不動産会社のビル管理会社からの依頼で清掃をやったりとかもしてた。
だから便利屋はしばらく長かったですね。

そんなわけだから仕事はメチャクチャ山ほどあって3人で寝る時間も無いほど働いてたんだけど、1ヶ月やってアルバイトに時給を払ったあとに、3人で儲かったお金を分けると1人3万円とか5万円とかしか無いんですよ。
「えぇ~これだけ忙しいのに~!」って。アルバイトに時給1,000円払ってさ、アルバイトの方がもらってるわけ。「どうしてこんなに少ないの?」って。酷いときはゼロって月も何回もあったし、一番多くても10万円。

バブルでみんなウハウハしているとき、忙しいのにカネにならないんですよ。

 

<人生の転機>


そんなとき1988年8月1日から8日の8日間、八ヶ岳スキー場で「いのちの祭り」っていう野外フェスがあったんです。ひょんなきっかけでそこに行くことになって、そこで人生が変わりました。
今まで山ん中って行ったことなかったんだけど、ここで1週間テント張って生活したんです。

 


当時オカルトブームで「6」って数字が不吉な数字と言われていて、じゃあいい数字は何かって言うと「8」だって言う。1988年の春なんですけど、本当にカネが無くって困っていたときに、88年の8月8日だったら「8」が4つ並ぶじゃんと思って。なんか判んないんだけど、それまではカネが無くって最低の生活をしてたんですよ。なにか生活変わんないとなと思ってて、でもなにしていいか判んなくて。

8月8日までにはなにかきっかけになるんじゃないかと思ってたところに、ひょんなことに1988年8月8日「8888」でさらに「八ヶ岳」って書いてあるのをちょっと見たんですよ。「ええ、なんだろう?」と思って、とにかくなんだか判らないけど行ってみようと。そこでオレの人生が変わった。

こういう山の中でのイベントに行ってみたら、みんなチラシとかを配っているんです。次回こんなお祭りがありますからみたいなチラシです。
「いのちの祭り」は約1万人ぐらい集まった大きなイベントだったんだけど、日本中のあちこちで個人的で小さいイベントをやっていることを知って、それでいろんなお祭りやイベントに行き始めたんです。
そこから20年間、九州から北海道まで、お祭りが楽しくって歩きまわるようになったんです。

 

<「ガンバラネBAR」のオープン>


「いのちの祭り」の20年後の2008年。5月15日がオレの誕生日なんですけど、ここ「ガンバラネBAR」を探して契約しました。

1988年の「いのちの祭り」に行った人たちのことを「88フリーク」って呼ぶんだけど、「88フリーク」の友だちふたりが手伝いに来てくれてこの店を作ってくれて、3ヶ月かかって2008年8月8日にオープンしたんです。


この店は20年間の「祭り」の集大成みたいな、そのつもりですね。たまたまこんな場所が見つかったもんで。

ここってのはもう、まずちょっと探そうと思っても見つからないだろうなと思われる場所なんだけど、それはなぜかと言うと、ここは昭和8年築なんです。もう88年経つんですけど。2008年に不動産屋さんと契約したときに、もしかしたら老朽化が進んでいるので5年後ぐらいに取り壊しになるかもしれないから、そのときは素直に出て行ってください、という約束で借りたのね。
まあ、当時は5年もやれば十分だなと思っていたから。その代わり何してもいいって言うんですよ。オレが出た後は取り壊すだけだから、ここ。壁に穴開けようが何しようがいいと。普通のアパートだったら壁に釘打っただけで出て行くときうるさいじゃないですか。それが穴開けようが何しようが好きにやってくれって言うんだから、こんな場所都内探しても無いってわけですよ。

本当は5年で出ていかなくちゃいけないんだけれど、ところが5年なんかあっという間に経っちゃって。
大家さんは近所に住んでいて、すごくいい人で良かったんです。だけど大家さんが4年半経ったところで亡くなっちゃった。息子さんがいて引き継いだんだけど、5年経ったときに、おとうさんが亡くなったばかりでまだゴタゴタしてるところだから「そのままでいいですよ」ってことで、以降も2年ごとに契約更新してるんですけど。(笑)

いつも家賃は振込じゃなくって近いんで毎月持って行っています。毎回家賃払うたびに顔を見てるんでそれが良かったなと思ってるんです。なんか割りといい感じに接してくれていて、いまだかつてここを取り壊すことも無く「まだいていいですよ。」ってことで、大家さんのお情けみたいなことで続けています。
すごくいい場所が見つかったと思っています。

 

<「ガンバラネBAR」改造計画>


店をやるまでは大工仕事をやっていました。今でもなかなか売上げが思うようにいかなくて家賃が払えないから、ずっと現場仕事を続けていたんだけど、コロナで一切現場の仕事が無くなっちゃった。

店を始めて最初のころは楽器とかみんな奥に置いてあって、PAなんかもあって、ガンガン演ってたんですよ。そしたら何回も周りから苦情が来て、そのうちエライことになっちゃって。(笑)
置いておくとみんな音を出しちゃうもんだからね。表側は青梅街道だけど裏側は普通の住宅なんですよ。だから楽器も手前に持って来て、PAとかマイクも外して、ドラムもデジタルにしたんです。

そんなことで今はアコースティックな音しか出せなくなっちゃったから、いずれ防音工事をしようと思っているんです。これはもう何年も前からずっと思っています。裏にある小さな庭が作業場になっていて、材木のストックや工具なんかも置いてあるんだけど、なかなか思っているような工事ができずにいたんです。ようやくとここにきてコロナの融資枠でお金を借りられるかもしれないので、申請をする方向で進めています。そうしたらそんな遠くないうちに店内の改装工事に入れると思うんです。

なんせここは築88年。当時の建築の基準なので、そこも何とかしていかないといけない。水道管も鉛のものから変えたり、床に小さな薪だけで十分に建物全部を温められるロケットストーブのシステムを入れてみたり、天井を抜いて古くからの在来工法からさらに強度を増すようにしたり、そんなこともやっていかないといけないんですよ。

店は防音工事をしてライブができるようにして、上の3部屋は海外からのバックパッカーが泊まれるようなゲストハウスにしたいと思っています。

「ガンバラネBAR」の基本コンセプトは「エコロジー」だから、働きに行ってる工事現場から出た廃材なんかを上手く使って工事しようとしています。最初に店を作るときもそうだったから。ここは、全部自分と仲間たちの手作りなんです。
でもそれじゃなかなか先に進まないから、今回は専門業者に任せようとも思ってます。
そうやってずっと考えてるんだけど、いつ工事が始められるかまだ判らないんですけどね。

 

<「ガンバラネBAR」はリサイクルショップだった>


「ガンバラネBAR」は、最初はリサイクルショップをやるつもりで開いたんです。

便利屋をやってた当時は、不動産屋からの仕事でハウスクリーニングとかをやってたんだけど、そのころ「夜逃げ」がやたら多かったんです。普通に生活していたそのままで、住んでた人間だけ夜逃げしていなくなっちゃうんですよ。だから大家さんも困っちゃって、そんで不動産屋がそんな荷物を運び出してくれって。捨てるのがもったいないようなものばかりだから、そんな荷物を集めて最初はフリーマーケットで売ってたんだけど、フリマのたんびに運んだりするのが面倒臭くなって、池袋で小さなリサイクルショップを始めたんです。
フリーマーケットのときはけっこう売れてたんですが、それじゃあってリサイクルショップをやったら全然売れなくって・・・。1年半ぐらいやって毎月赤字でやめることなった。

そのあとに「カンバラネBAR」を始めたんだけど、池袋みたいなリサイクルショップを高円寺でやるつもりが、手伝いに来てくれてた「88フリーク」の友だちがカウンターを作っちゃって。
「ここはリサイクルショップよりもバーの方がいい。」って言うから・・・。なんかオレの予定じゃなかったんですよね。勝手に作られちゃって。(笑)

下北沢によく行ってたころにいた彼女が阿佐ヶ谷にいたんです。その娘が真面目に働いてたんだけど会社が倒産して失業保険をもらうようになってから次の仕事を探さなくなって、オレがカネを貸すようになっちゃったんだけど、なかなか返してくれない。その娘を働かせるために、借金を返させるためにここを借りてリサイクルショップを始めたんですよ。そしたら「ちょっと待て」って言われてカウンター作られて。そういう流れで・・・。(苦笑)

その娘がいなかったらここを借りることもなかっただろうね。

 

<ミッキーさんの高円寺>


楽しい街ですよ、高円寺は。なんでもあって便利で賑やかだしね。方南町に比べたら天国ですよ。

高円寺はいいも悪いも人間関係ですかね。店を開けていればいろんな人が集まってくるし、優れたミュージシャンがまわりにいて寄ってきてくれたりね。そのへんもよかったです。

店を開ける前から付き合いのある阿佐ヶ谷のライブハウス「ASAGAYA 天」とは姉妹店みたいなもんです。「天」のスタッフも同じバンドメンバーだったりで、みんな身内って感じです。そんな感じでいい付き合いができる街ですね。

逆にとんでもないヤツもいっぱいいて、こういう店やってると、ここは自分のねぐらだと思っちゃって住みつかれたりするんですよ。そういう図々しい人がけっこういて、上の部屋とかに住みついちゃう。
現場仕事とかで出かけている間、せめて店番ぐらいしろって任せたら、店を乗っ取られたこともあったしねぇ。看板が外されて店の名前を勝手に変えられたり、金庫を隠されちゃったり、数えきれないほどそういうとんでもないヤツらに住みつかれたね。最後のヤツも3年ぐらい住みつかれて、そうなると追い出すのが大変です。
今でもトラウマですよ。

 

<ミッキーさんの信条は>


「Where there’s a will, there’s a way」

高校生のとき、受験勉強しているときに知ったアメリカのことわざです。日本語で近いのが「精神一到何事か成らざらん」だと思います。
いい言葉だなと思うんだけど、なんかいざとなると精神一到を忘れていろんなヤツにつけ込まれてしまってねぇ。あまり役には立ってませんが、いい言葉だなと思っています。

 

<ミッキーさんにとっての「愛」とは?>


お~お~お~、難しいなぁ。

あの~人間関係っていうか、友人知人はたくさんいるんですよ。20年間「祭り」に行ってた間や店を作ってからも、日本中にたくさん知り合いがいる。
これはすごいラッキーだなと思っているんですけど、一番近いパートナーに恵まれないんですよね。女の子で言えばガールフレンドなりカミさんなり。バンドも長く演ってるんだけどコンビがいないんですよ。ビートルズで言うところの、ジョンとポールみたいなね。

人生のパートナー、音楽のパートナーがいないんです。

残りの人生で、今まで69年間巡り逢ってなかったパートナーに出会えることをもちろん希望してますけどね。
永遠のテーマというか、いつかは掴みたいと思っています。

「愛」っていうのは、憧れますね。

 



 

2021.9.7 TUE
高円寺「ガンバラネBAR」にて

取材:木澤 聡
写真:小野千明
序文:北原慶昭

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