第十二回:「深谷五朗さん」【俳優】

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「文化の領域で仕事をする」

俳優である本村壮平さんが監督をつとめた映画「夢の在処 ひとびとのトリロジー」に録音部として参加しました。

この作品は、監督、カメラマン、制作そして出演と、すべて俳優たちの手によって作られました。自主制作ゆえにたいへん厳しい劇場公開への道のりを乗り越えて、宣伝や配給、ポスター貼りやチラシくばりにいたるまで俳優が中心になってやるという、まさにプレイヤーによるプレイヤーの映画作りにかかわったことになります。
シーンによっては役者さんの自宅や部屋をそのまま使わせてもらったり、普段見えない俳優の私生活を垣間見る機会でもありました。そのなかで、演じることを仕事にする人たちはどんな日々を送っているのだろうと、とても興味を持ちました。

たとえば役を得るためにオーディションにでかけたり、ジムを含め、いろいろな研鑽を積んだり、演じる以外にもたくさんやることがあります。俳優だけでは生計が立たない場合は、他の仕事やアルバイトを並行してやらなければならないという実情もあったりします。
そのような事態は、こと俳優だけではなく、作家、ミュージシャン、芸人、芸術家など、およそ文化芸術の領域で働いているひと、その道を志そうとする人に起きています。もちろん作家として、俳優として、それだけで暮らしている人はいます。しかしそれは全体の数パーセントにしかすぎない。多くは、なんの保障もなく、将来への展望もなく、生活者として保護されないままに文化芸術の領域で働かざるをえない状況にあります。

また近年では、文化産業、コンテンツ産業における製作形態の見直しや、働く環境を改善していこうという動き、さらにハラスメントを中心に据えたモラルの問題などが、可視化され、広く議論を呼んでいます。

いま、作る、演じる現場や状況が大きく変わっていこうとしています。そんな変化の時代のただなかにいる俳優さんに話をうかがいたいと思いました。
深谷五朗さんは、上京してきた23歳のころから、高円寺で飲み、働き、たくさんの人たちと語らってきました。そんな深谷さんに、「人間失格」という変わった名前のBARで、俳優であるご自身のこと、取り巻く環境のこと、いまあるさまざまな問題への大切な示唆を、そして愛について、たっぷり話していただきました。

映画や演劇といった文化に根を持つ仕事を志しているかた、俳優になりたいと思っているかただけでなく、文化という大切な宝物を守り、育んでいこうとする、すべてのひとに読んでいただきたいインタビューです。

 

◎旅のはじまり


―:深谷五朗さんご自身による自己紹介をお願いします。

深谷:奈良県出身の37歳です。舞台だったり、映画で活動しています。そもそもお芝居をはじめるきっかけは、こどものころ、5歳か6歳くらいのときに、母親に大阪の児童劇団に連れていかれたことです。
奈良から大阪まで通って。それがきっかけといえば、きっかけなんですけれど、当時はそれがすごく嫌だったんです。わけわかんないじゃないですか、5歳くらいだと。こどもなんで台本に書かれている漢字とかも読めないし。泣きながら母に連れて行かれていました。稽古に行くと、なにか買ってもらえるので通っていましたが、それでもやはり嫌になって1年くらいでやめました。
そのあとは芝居とは関係のない、ごく普通の学校生活を送っていました。高校卒業前に、大学のこととかも考えだしていたんですが、スーツを着る仕事は出来ないなと思っていました。父親が公務員なので、スーツ着て帰ってくるじゃないですか、その姿がすごく疲弊して見えたんですね。この歳になると、父親は毎日一所懸命働いていたんだな、すごいなってわかるんですけど、当時はなんだその仕事って、と思っていました。スーツを着ている父が人生に疲れているように見えて、自分はああはなるまいと思っちゃったんです。そんな感じで僕自身、なにをしたいのか迷っていました。
高校の同級生はほとんど大学進学だったなかで、なんというか、社会の仕組みのなかにはいるのは嫌だなって漠然と思っていました。学校っていうのも社会の仕組みのひとつですから、大学も社会の縮図みたいに感じていました。そこにあまりなじめていない自分がいたんです。
そんなとき、高校卒業前、唐突にホームレスをやろうと思って、携帯を家に置いたまま、大阪のアメ村(アメリカ村)にある三角公園というところに行ったんです。ま、家出ですよね。
夜中座っていたら、アメ村でホームレスをしていた人が話しかけてきて、行くところあるのかって。いや、ないですって(笑)。そのホームレスの方は戸籍を売っちゃったらしく、「自称前田」と名乗っていました。その「自称前田」さんに付いて、しばらくホームレスをしていました。でもホームレスの生活にもヒエラルキーがあって、そこにも社会の仕組みや縮図があったんですね。三角形(ヒエラルキー)も縄張りもあって、これ違うなって思ったんです。どうせ同じ三角なら大きい三角のほうがいいかなと。

 

◎旅はつづく


深谷:で、実家に戻って、奈良に店舗があったアパレルの会社に就職したんです。入社三ヶ月くらいで、すぐ店長になって、お店を任されてやっていました。そこでもまた不満を感じるようになっていくんです。自分は一体なにしているんだろう、これはいやだなと(笑)。働くと、いくら好きでもやっぱり疲れるじゃないですか。気がつけば父親と同じような感じになっていたんです。休みもほとんど取らず働いていて、しんどくなって1年半くらいで辞めたんです。
このまま奈良にいたらだめになるなと思って、携帯を捨てて、スケッチブックとカバンひとつで、沖縄までヒッチハイクをしました。そのヒッチハイクの旅で、会う人がみなすごくいい人たちばかりだったんですね。向こうも次に会うこともないからって、身の上のことをいろいろ話してくれるんです。その人のしんどいことや明るい話題もありました。車に乗せてくれる人も道で会う人も、そんな感じで、いままでにない交流を持ったんです。当時、お金もなかったから、出会った人に食べ物を買ってもらったりもしてました。
沖縄に着いて、しばらくいたんですけど、奈良に帰るお金もないので、仕事をすることにしました。一緒に働く人のほとんどが、沖縄の人ではなく、県外から来た人たちばかりだったんです。彼らはみんなやりたいことや将来こうなりたいっていうのがしっかりあって、そんなことをよく話してくれました。それを聞いて、あれ、俺ってなにもないなと気がついて、不安になったんです。ちょうど20歳になる前くらいでしたが、このままいったら俺ヤバいぞと焦るんです。
とりあえず帰りのフェリー代を稼いで、奈良に帰りました。なにかやることを考えないとまずいぞと、求人誌をペラペラめくっていたら、ちょうどエキストラ募集があって、児童劇団にいたことも覚えていたので、そこに応募したんです。大阪の事務所だったのですが、エキストラではなく所属のオーディションを受けないかということになり、所属して活動するようになりました。
なんかすっごく長い自己紹介になったんですけど、だいじょうぶですか(笑)。

 

◎なにもしないというスタイル


―:深谷さんはご自身をどんな俳優だと感じていますか。

深谷:はじめたころは映画に憧れていたんです。というのも学生時代、学校をさぼって映画ばかり観ていたんです。ちょうどそのころって、インディペンデント映画が東京ですごく盛んに上映されていました。監督でいうと、塚本晋也さん、石井克人さん、石井岳龍さん、黒沢清さんたちですね。90年代とか2000年代に、そういった監督たちがワッときて、ミニシアターを知らない僕は、レンタルビデオ屋さんで、そういったインディペンデント映画をひたすら借りて観ていました。
そんなこともあって映画俳優に憧れていました。メジャーじゃなくて、インディペンデントな感じといいますか、当時だったら浅野忠信さんとか永瀬正敏さんとかに憧れがありました。

―:何歳のときに東京に来たのですか?

深谷:23歳のときです。事務所にはいったのが20歳で、3年くらいは大阪で仕事していたんですけど、東京にきて、世の中そう甘くないことを知るんです。
でてきたきっかけは塚本晋也さんの映画で、エキストラみたいなかたちですが、出演したことだったので、東京でもイケるぞと思ったんですが、そう簡単ではなかったですね。

―:事務所を辞めてフリーの俳優として東京に来たのですか?

深谷:そうです。そしたら俳優の仕事なんて全然ないし、大阪でそこそこできると自分では思っていたのに、東京に来たらうまい人なんてザラにいるわけですよ。うまいなこいつ、みたいなのがたくさんいる。そこで気づくわけじゃないですか、勝てないなこのままじゃって。で、映画だけでやりたかったんですけど、仕事を取れなくて、ほかに舞台もやりはじめたんです。
舞台の世界にいくと、小劇場の役者から、映像の役者さんってよばれるんですよ。ぼく自身はなんのへだたりや垣根はなかったのですが、映像の役者さんだから長い台詞は無理だねとか言われたりして、けっこうイビられたりしました。
そうこうしながらも舞台を何本かやって、そのあとにまた自主制作の映画の現場に行くと、そこで舞台の役者さんでしょって言われる。どっちからもアンチを喰らうんです。どっちにいってもどっちつかずの自分だったので、相手の印象にも違和感を感じていたこともあって、あえて自分のスタイルということへの意識をあまり持たないようにしてきました。
それぞれ俳優さんのなかで、スタイルや立ち位置の自負があると思うのですけれど、僕はそこがなにもないという感じなんです。なんか無理に自分を押し込めないで、やりたいことをやるというか、それしかやっていない感じなんです。
舞台は舞台の芝居があり、映画は映画の芝居があるっていうんだけど、僕としては何をそんなに分けたがっているんだろうと不思議でしかないんです。すごく自由な仕事なのに、自分たちで首しめてるなって思います。それはずっと思っていることです。
田舎に行けばいろいろ面倒なしきたりがあったりするんですけど、東京も、こんなにたくさんの人がいるのに、妙に仕切りを設けたがる人が多いなっていう印象です。
演技というのは、人間を演じるわけで、そのことはなんのジャンルでも変わりはないわけじゃないですか。根底にあるのは人を演じるということです。じゃあ人にジャンルはあるのかっていったら、ぼくはあまりそう思わない。もちろん人種だったり言語だったりという、そういう違いはあるかもしれないけれど、怒ったり泣いたり笑ったりっていうのは、どの人種でも起きていることだしって考えると、自分をスタイルなりジャンルに落としこむ必要を感じないんです。

 

◎交わりと自己


―:深谷さんのホームレス体験やヒッチハイクの旅を通して、いろんな人と交わったことが、いまうかがった演じることへの足がかりや影響になっていたりするのでしょうか。

深谷:人と会うことで自分を知るといいますか、人と会って話すことで自分のことに気がつくことが多いです。いまもこうしてBARで話しているんですが、そのことで自分をすごく認識するんです。
ヒッチハイクとかして出会った人たちって、それまで自分の生活の中にいなかった人たちばかりなんですね。そういう意味ではなんかひろがって、自分の知らなかった自分を知れたのかもしれません。別に遠くに行かなくても、いろんな人に会って、そうするなかで、「あたりまえの人」なんてひとりもいないなって思うんです。みんないろんなことを考えたり、悩んだりして生きている。ホームレス経験や沖縄ヒッチハイクが、そのことに気がつくきっかけになったのかもしれません。若いときって自分しかいないじゃないですか、自分は特別だって思い込みたい。でもそうじゃないんだっていうのは、人とのつながり、関係性のなかで理解してきました。

―:20代、30代と、俳優としてやってきて、その過程で自身のなかでなにか大きな変化とかはありましたか。

深谷:大きくは変わらないですね。仕事があるときも、ないときも、そういう状況って今も一緒ですし。歳をとったことぐらいでしょうか(笑)。
映画も舞台もバランスよくやりたいんですが、希望通りにいくわけでもないですし、基本的に受け身なので、いただいた仕事をやっていく。ただ自分の演じることへの考えはいまも変わってないですね。

 

◎高円寺に降り立つ


―:高円寺とのかかわりについて教えていただけますか。

深谷:僕は阿佐ヶ谷に住んでいたのですが、高円寺へは飲みに連れてこられたのが最初ですね。それ以来ずっと高円寺は飲みにくるところです。芝居仲間もたくさんいるので、飲みってなるとやってきますね。
あと東京にでてきて最初のころは大道具のバイトとかもしていて、「座・高円寺」のたたきとかもやっていました。

―:たたきというのは舞台を作る作業ですね。

深谷:そうです。大道具は短い期間しかやってないんですけど、内装業とか大工のほうをけっこう長いことやっていたので、手伝いやらなにやらして、そのかわりに舞台を観させてもらったりしていました。
なんやかんやで高円寺はよく来ていて、その内装やっていたときの会社も高円寺にあったりと、ちょくちょくというかほぼ毎日来ていました。仕事終わって、そのまま飲むとかね。

―:そんな庭みたいな高円寺ですが、どんな印象を持っていますか?

深谷:はじめの高円寺の印象は古着でしょうか。古着の街という感じです。僕は奈良でアパレルやっていたので。その当時のファッション雑誌って各地方のスナップ写真が載っていたんです。東京、大阪、福岡とかのおしゃれな人みたいなコーナーで、東京だと下北沢や高円寺とかなんです。そっちからの入りですね。古着屋だったし、下北沢とはちがったファッション感を持った街という印象です。僕自身が奈良ではけっこう派手めのファッションだったので、どっちかというと高円寺的なファッション感に近かったというか、なんか高円寺には親近感がありました。
東京に土地勘もなかったんで、ファッション誌にでてくる地名ということで、中野あたりの不動産やさんで中央線沿線を探しました。

―:中央線は長いんですね。

深谷:一発目から中央線です。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻は地続きなんで、みんなで飲んでると違う駅でも飲むんですね。すると駅が変わると若干ですが、街や人の雰囲気が変わったりする。それはそれでおもしろいなあと思っていました。中央線はいい刺激になります。

 

◎演じる環境


―:高円寺と演劇についてうかがいます。高円寺には「座・高円寺」という大きな劇場があるのですが、かつての「明石スタジオ」のようなインディペンデントな小劇場がみあたりません。演劇は下北沢というイメージですが、高円寺以外の中央線、たとえば中野、阿佐ヶ谷、荻窪などにも小さな劇場があったりもします。
高円寺と演劇的なムーブメントについてなにか思うことはありますか。

深谷:どうでしょうか。ひと昔前だと、高円寺に限らず、文化を作ろうとする若い人たちがけっこういたと思うのですが、そこが演劇の世界では育ってないんじゃないかなと思うことはあります。
演劇ってちょっと敷居が高くないですか?たとえばライブハウスだったら、2000円くらいでドリンクもついて楽しめたりするところを、演劇だとチケット代が倍くらいして、座り心地の悪いパイプ椅子で2時間、おもしろいのかおもしろくないのかわからないものにペイするというのが、今の若い人たちにとって魅力的に感じるだろうかと、ぼくなんかは思ってしまいます。いまはサブスクでいろいろ観られて、それこそ演劇のサブスクもあって、そんな簡単に観られるようになったら、劇場に来ないのもあたりまえなんじゃないでしょうか。これは高円寺だけが抱えている問題ではないように思います。

―:演劇の領域では、全体的にそういった地盤沈下が起きているということでしょうか。

深谷:演劇ブームがあった時代に比べると勢いはないと感じます。

―:同じく映画などの映像制作のほうはどうでしょうか。

深谷:技術的なこととかは置いといて、やはりミニシアターとかがなくなったり、経営が苦しかったりという現状はありますね。一方でバジェットの大きい映画は毎年でてきますけど、それも配信系の大手、アマゾン、ネットフリックス、ディズニープラスといった、資本があるところに集約されてしまっています。
映画ってすごく撮り易くなっていますよね。カメラもほかの機材も安くなって手軽になりました。昔から比べたら何十分の一とかで作れてしまう。だれにでも作れてしまうから増えるけれど、反面、お金が出なくなるんです。作る人はいてもお金を出す人がいなくなる。制作の人と話しているとみな言うのが、お金を出す側が単価を落としてくるのだと。えっ、これ5万くらいでできないのとか、こんなの俺でも撮れるじゃんとか、そんな感覚でくるので、映像の世界もやっぱり厳しい状況にあるんじゃないかなと思います。
作家性というのもあると思うんですが、資本が大きくなればなるほど、そういった監督の個性みたいなものが薄まっていくのも仕方ないと諦めざるを得ないということもあるかもしれません。
かと思えば一方で、是枝裕和監督や山崎貴監督といった方が、映画製作の資本の流れを変えようとして、国にコンテンツ産業への支援を求めたりする動きもあったりします。
僕自身は、国が言う文化ってどうなの、そもそも文化を壊してきたのは国なのに、って思ってしまうほうなんですけど(笑)。国に頼らざるを得ないっていうのが、衰退しているっていうことなのかもしれないですね。
お金があればいいものが撮れるかっていうと、またそれもちがうと思います。なんかもったいないですよね。日本独特のいい感覚とか、独自の文化もありながら、それらがいろんなもので抑圧されているのか、もしくはなくなっていっているのか、そこはわからないですけど、もったいないなと思います。

 

◎変化の季節

―:映画なり演劇なり、なにかを作っていくときに必要になる資本=お金の問題の指摘が深谷さんからありました。従来の製作委員会的なお金の集めかたとはまたちがったファンドや国からの支援を含めて制作者側に立った製作のかたちを模索する動きもすすんでいます。同時にここにきて、ハラスメントなどを軸とした業界の働く環境の改善もにわかにクローズアップされています。そういった変化の時期にあって、深谷さんはどんなことを感じていますか。

深谷:セクハラ、パワハラ、そういうハラスメントは昔から、どこかあたりまえにあったわけです。それらが表面にでてきたときに、僕らの下の世代って、そういう教育を受けてきているんです。学校教育でLGBTQやハラスメントについて教わってきています。いまの10代はあたりまえにそれらを認識しているなか、僕らおじさん世代はそのあたりがよくわかっていないままに育ってきてしまいました。もちろん、これはやっちゃいけないというのはわかっていますが、やはり下の若い世代とは認識の違いというか、ギャップがありますね。とはいえ同じ現場で仕事をしなければならないわけで、両者の認識の違いのバランスをとろうとしているところではないでしょうか。
あんまり言いすぎてしまうと、自分の首をしめることにならないかと、過剰な反応に関しては思うことはあります。もちろんそういった理不尽なハラスメントはなくなったほうがいいし、みんなが気持ちよく働ける環境を作るっていうのは必要だと思います。
最近でもインティマシー・コーディネーターをスタッフとしていれたかをめぐって、あるいはその発言が大きく取り上げられて問題になりましたが、作品の評価よりも、そちらの評価が表立ってしまうというのは、やはり業界自体にまだまだ問題があるのかなって見ています。早急に改善しないと、このさき作品が作れなくなってしまうのではと危惧しています。

―:働く環境の改善はどんどんすすめてほしいと思う反面、さきほどおっしゃっていた首をしめるではないですが、ハラスメントの基準が曖昧なままだと、過剰に反応したり、ひかえたりということが起きるのではないかと思いますが、そのあたりは演じるなかで影響があったりしますか。

深谷:演じるまえに台本があります。むかしの検閲じゃないですけど、この表現はだめだとかっていうのが、台本のレベルから起きていると、やはり演じる幅がなにか変わってくるのかもしれません。
何年か前に、いろんな国の演出家をよんで、それぞれ15分くらいの短い演劇をやるという試みがありました。そのなかである演出家の台本が、東京都の検閲にひっかかって真っ黒になったんですね。それをみて、いまの時代にこんなことがあるんだって思いました。その演出家の方が、自分の国ではこういう検閲はよくあることだからだいじょうぶだよって、書き直したりしていましたけど、僕からすると、表現を黒塗りにされるなんて、こんなの戦中のようじゃないかと思ったりするんです。
僕らの仕事は台本を渡されてからはじまるのですが、そのまえに表現が縮小されてしまうんだろうなと思います。

―:黒塗りにされた台詞は俳優のところまで行きつかない。

深谷:そうですね。ぼくたちにも届かないし、観客にも届かない。それがいいのか悪いのかは置いておいて、放送禁止用語みたいなものが大きくなればなるほど、できなくなることも増えていくんじゃないかなと思います。

 

◎エネルギーとパワー


―:資本をめぐって、ハラスメントをめぐって、映画や演劇を作る現場では分断が起きているように感じます。ものごとが変わっていくさなかというのは、複雑でむずかしいものだと思いますが、どのようなかたちで問題解決にむかうのがいいと考えますか。

深谷:問題だらけですからねえ(笑)。スタッフや俳優の働く環境の改善とか、ずっとあった問題を、いまやっと俎上に乗せてくれたわけじゃないですか。それまで言いたくてもいえなかったり、仕事がなくなるからって黙っていたり、見えない圧力があったりして、ずるずるとそのままになっていたものが問題化されているのですが、あと何年くらいかかるんでしょうか、難しい道のりだと思います。

―:問題をたくさん抱えながらではありますが、俳優、スタッフの熱量はかわらず持ちつづけているのでしょうか。

深谷:制限があるほうがおもしろいものができるというのは実際あると思います。中国を例にしても、国として政策や制限があって、そのなかをかいくぐってすごい映画を作っている人たちがいますよね。日本でもあったと思うんです。唐十郎さんとかは野外でテントたてて、警察がきたりするなかで芝居やったりしていたようですが、そういう抑圧があってエネルギーが放出されたりするわけで、なんでもかんでも自由だと、それはまたちがった方向になるんじゃないでしょうか。表現する必要がなくなってくるのかなとも思います。

―:塚本晋也監督の「ほかげ」は、すごく熱量のある映画だと感じたんですが、そういった作ること、演じることへの熱量について感じることをきかせてください。

深谷:塚本監督自身がエネルギーのかたまりのような方ですからね。現状への危機感や反発をエネルギーに変えて表現している人もいれば、ただ楽しいものを作りたいと思って表現している人もいて、それはどちらでもいいとぼくは思っています。それがまったくできなくなったとき、いったいなにがでてくるのかなとは思います。
パワーはみんな持っていると思うんです。その出しかたがちがうだけで、若い人も、ぼくらの年代の人も持っています。そのパワーがなにかの影響で出せなくなっているというのが問題なのだと思います。
ひとりひとりのパワーはしっかりあるんだけど、それらを巻き込んで大きな力にしていくというのは昔に比べて弱くなっているのかもしれません。なかなかムーブメントになっていかないのは、いっぱい問題がありすぎて、パワーもエネルギーも分散されているからかもしれません。

 

◎失敗しながら考える


―:芸術や文化の領域で働く人たちの環境改善やモラルの正常化など、さまざまな問題を抱えながら変わっていこうとしていると思うのですが、いい方向にむかって着地することを願っています。

深谷:失敗を恐れないことではないでしょうか。失敗をして、じゃあ、次に何を試そうかというような、失敗も視野に入れた試行錯誤をすることも必要だと思います。そうすることで必要な事が見えてくるのではないでしょうか。
失敗しながら考えていくことも大切だと思います。ただ、今はそれをすることが難しいのかもしれません。失敗したので次はこれを試してみますということが許されなくなってきて、なにをやってるんだとすぐに叩かれるので、そうなると、変えられるものも変えられないなと思います。

―:失敗を許さない社会になっています。

深谷:許容してくれないですからね。世の中がおおらかではなくなってきているように思います。それでも考えないといけなくて、考えてこなかったから今の状況になってしまったとも言えるので、とにかく考える。でもどうしたら変わるかなんて、すぐにはでてこないし、すぐに変わるとも思いません。ただそれぞれがそういった問題に対して当事者意識を持って考えていかないといけないと思います。

 

◎そして次の旅へ


―:これからの展望ややりたいことについて教えてください。

深谷:ここまでの話の流れでいったら、この国から出て仕事をするってことじゃないですか(笑)。いつまでも変わらないところよりも、環境のより良い場所で仕事をしたいっていう感じでしょうか。でもみんなが嫌だと言って日本から出ていってしまえば何か変わるかもしれませんね。
実際、この国で続けることに希望を見出せないと感じる若い世代が、選択肢として外へ出ていくことも増えていくのではないでしょうか。

―:出ていっちゃえっていうのは、最初の自己紹介でもあった、ホームレスになるとか沖縄にヒッチハイクで行くとかといった、深谷さん独特の身軽さを感じて、その軽やかさってすごくいいなと思いました。

深谷:それがグローバル化につながっていくのかもしれませんね。ここが嫌だからあっちに行っちゃおうっていうのが簡単に出来れば、この国にどれくらいの人が残るのかなって。国境とかがなくなれば、いろんな場所に簡単に行き来ができるようになりますよね。
どの仕事でも、ノマドワーカーみたいなことができたらおもしろいなと思います。行く先々で仕事が取れたら、それがベターじゃないかなと。同じところにとどまるのが、僕自身苦手なのかもしれません。俳優っていう仕事も毎回ちがう人と、ちがった現場でやるわけですが、そういった流動的なものに対して憧れがあるのかもしれません。

―:深谷さんのノマド的な魅力っていうのは、高円寺という街の魅力に近しいものを感じるのですが、そのあたりはいかがでしょうか。

深谷:高円寺って、誰に対してもすごくウエルカムな街じゃないですか。僕のような大したことのない人間が来ても、なにも言われないといいますか、37歳で俳優やってますっていうことを、むしろ応援してくれる人のほうが多かったりして、ほんとうに寛大な街だなあと思います。どの街もみんなこうだったら、なにかが変わるのかもしれません。

 

◎愛のちから


―:最後に深谷さんにとって「愛」ってなんでしょうか。

深谷:愛、愛ねえ、むずかしいですよね、なんだろうなあ。
月並みのことを言ってしまうんですけど、与えることではないかなと思います。愛を与え、また与えられることができれば、ハラスメントなんてなくなるんじゃないでしょうか。
まわりにある問題の多くも、愛があること、人を思いやることで解決できることもあると思います。最後は愛の大切さに行き着くのかもしれません。

 

<了>





2024.07.14 SUN
高円寺 BAR「人間失格」にて

取材:北原慶昭 
写真:小野千明

 

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